今回は、電力自由化の世界的な歴史について見て参りましょう。
世界で電力自由化を実施している国は20カ国以上あるのですが、ここではイギリス・ドイツ・アメリカと日本にとって馴染み深い国の、それぞれの電力の自由化について取り上げてみようと思います。
①イギリスの電力自由化
イギリスでは、電力事業は1957年から独占的に発電・送電を担う国営の中央電力公社と、12の地域配電局によって運営されてきました。この電力事業の国有化は、大規模発電所を集中的に設置したり、送電網の整備を整備するのに必要となる資金調達を効率良く行うことに貢献しました。
しかし、時代が下るにつれて、国有電力事業者の独占による様々な問題が表出することとなりました。過剰な発電設備の建設、炭鉱労働者のストライキによって価格が引き上げられた国内炭の使用等、経営効率が低下したのです。
こうした非効率な電力事業体制に対し、サッチャー政権は1988年に電力民営化白書を発表しました。電力事業を民営化させることで、事業者間に市場メカニズムを導入して競争を促すことで国民の電力価格引下げを図ったのです。1989年に電気法が成立し、1990年に施行されました。これによって国有電力事業者の分割、民営化と競争原理の導入が図られることとなりました。
その後1995年に政府が所有している電力会社の黄金株の権利が失効し、電力会社の買収が実行可能となりました。その結果M&Aが活発化し、それぞれ(表1)にあるようにビッグ6として集約されました。ビッグ6は、Scottish and Southern Energy、Centrica-British Gasがイギリス資本ですが、ドイツ資本のRWE npower、E.ON UK、フランス資本のEDF Energy、スペイン資本のScottish Powerなど海外資本も参入しています。ビッグ6で小売市場の9割ほどを占める状態となりました。
ビッグ6各企業は①全社、電力・ガスのデュアル・フューエルを実施、②1社につき数十にも及ぶメニューを用意、など提供するサービスの非差別化に成功し、需要家の切替意欲の減退にもつなげることで、需要家の離脱防止を図りました。その上で、電力・ガス価格の同時期の一斉値上げを実施したのです。しかし、イギリス国民、マスメディア、そして規制機関であるOfgemは、ビッグ6による寡占が競争を妨げ、価格カルテル形成につながっているのではないかと疑いを抱きました。
イギリスの規制機関は、Ofgem(Office of Gas and Electricity Markets)で、電力市場を監視・規制しています。Ofgemは、ビッグ6の寡占によって競争が妨げられていないか調査をして、電力小売りの新規参入を促す施策を打ち出すこととしました。
まず、小規模電力事業者への優遇税制の実施です。顧客数が25万件以下の小規模電力事業者には、2014年1月よりEnergy Companies Obligation(ECO)を免除することとしました。このECOが小規模電力事業者は免除対象となることで、小規模電力事業者は顧客に対してビッグ6各社よりも年間100ポンド以上低い価格で電力を提供できることになり、価格競争力が高められました。
また、料金プラン規制も行いました。ビッグ6は1社につき4プランしか提示できなくなりました。また、単価変更の事前通知を義務化、長期契約への自動更新の禁止という制限も加えました。一方、新規参入事業者は自由に料金プランを設定できることから競争力向上につながったのです。
こうしたOfgemによる施策の結果、新規参入事業者は再び増加し、2015年には電力、ガス会社など25社が参入してきました。新規参入事業者は、優宮税制の恩恵を活かして安価な料金メニューを提示し、独自色を打ち出すことでシェアの巻き返しを図り、その結果、新規参入事業者の中でも事業規模が拡大された結果、優遇税制対象外になるまでに成長し、それでもシェアを落とさずに事業継続ができる会社が登場しました。これらを「ビッグ6」になぞらえて「リトル6」と呼ばれています。
リトル6の代表例としては、100%再生可能エネルギーによる電力を販売する「Ecotricity」「Good Energy」、固定電話、携帯電話、高速インターネットのセット販売を行う「Utility Warehouse」、そしてWebサイトや顧客サポートなど些細な項目における改善の地道な積み重ねにより、高い顧客満足を実現した「OVO Energy」など、国民の多様な価値観に合わせた商品開発で成長している企業が挙げられます。
②ドイツの電力自由化
ドイツでは、イギリスのような国有電力事業者による独占型ではなく、発電・送電・小売を垂直的に担う大手電力会社8社と地域のインフラ提供会社である小規模の地域密着型事業体シュタットベルケによる電力事業体制を敷いていました。
1990年頃からヨーロッパでは、イギリスの電力自由化開始を契機にEUはヨーロッパでの電力単一市場の構築が図られることとなりました。そして1996 年には電力市場の自由化について定めた欧州電力域内市場司令(EU指令)が制定されました。ドイツはこのEU指令を受けて、コール政権下において1998年にエネルギー事業法を改正し小売の全面自由化を開始しました。
ドイツの電力自由化にあっては、「大手電力会社による新規参入者への不公正な参入障壁まで許すような制度設計であったこと」が問題点として挙げられます。
電力自由化における新規参入者は、通常、新たな送電網を自ら建設することはありません。コストがあまりにもかかりすぎるからです。そこで、大手電力会社の送電網を一定の託送料金を支払うことで使用します。そのため、競争促進の大前提として、託送料金の適正化は重要な要素です。
しかし、ドイツは自由化にあたって、発送電の分離は厳格でなく会計分離に留めました。そのため、ドイツの送電会社は、垂直統合型の大手電力会社のグループ会社のままでした。送電会社は大手電力会社の傘下企業の務めとして新規参入企業に対して託送料金の釣り上げを図ったのです。
その上、ドイツは託送料金の決定方法を電力会社と送電会社が交渉による方式を採用しました。EU電力指令では、託送料金について、政府が規制機関を通じて各社の託送料金を比較して監視する方式と、電力会社と送電会社が交渉して決定する方式があった中、EU加盟国のうち、ドイツ以外の全ての国は前者の方式を採用しましたが、ドイツだけは規制機関も設置しないで後者の方式を採用しました。この方式は、大手電力会社に極めて有利となったのですが、その背景には部分自由化を経ることなく一気に全面自由化をしたことで電力業界から猛烈な抵抗があり、それを押し切ったことへの政府側の配慮が見え隠れします。
その上で、大手電力会社は全国規模で戦略的に低価格を設定しました。高額な託送費用によって新規参入企業の電力コストを上げつつ、自身は出血を覚悟で低コスト戦略を実現するというのは、新規参入企業としては不公正極まりない参入障壁でした。事実、その結果、ドイツでは自由化により100社を超える新規電力事業者が誕生しましたが、次々と廃業に追い込まれました。2005年には、大手電力会社に属していない新規電力事業者はシュタットベルケを除いて6社しか残ることができませんでした。
ドイツ政府は、2005年に高価格の託送料金を是正するために送配電料金の認可制を導入しました。さらに、2009年には一層の公平性を担保するために送電会社の法的分離を行いました。
もっとも、2005年以降の電力システム改革は、時すでに遅しの感があり、再び参入してくる電力事業者は多くありませんでした。一方、自由化によって激減すると予測されていた「地元の電力会社」であるシュタットベルケは、多くが生き残り、電力小売の2割強以上のシェアを保ちました。シュタットベルケ自体は全国で1400社ほど存在し、前者の売上合計は2013年度で1100億円と、4大電力会社の売上に匹敵しています。シュタットベルケが地元の需要家に選ばれた理由は、地域に密着したサービスと一定以上のコスト競争力を持っていたことが大きいでしょう。需要家との近接さを活かし、単なる電力供給に留まらない地域密着の需要家サービスを提供している事例としては、家庭にコンサルタントを派遣してエネルギー消費診断を行う、サーモグラフィーを活用した断熱性評価を行う、家内の電気配線であっても障害が発生したら技術者を派遣するなど、いずれも地元の信頼感や安心感を高めるためのサービスが挙げられます。
ドイツでは、大手電力会社により参入障壁が高くなり、新規参入者の多くが倒産したという点で、イギリスの電力自由化と異なることはありません。しかし、ドイツの自由化では、大手事業者が送配電分離をなされていないことを背景に、積極的に市場の締め出しを図ったという状況は、イギリスとは大きく異なっています。
③アメリカの電力自由化
アメリカでは、1981年からのレーガン共和党政権下でエネルギー政策においても自由主義経済政策、つまり「レーガノミクス」を採用することとし、政府による市場介入を極力排除して市場原理を重視させる政策に転換しました。そのレーガン政権を1989年に引き継いだG.ブッシュ共和党政権は1992年にエネルギー政策法を成立させました。そして、発電事業の自由化、規制機関として連邦エネルギー規制委員会の託送命令権限の強化、大手電力会社に対する送電部門と発電部門の機能分離など小売自由化に備えた施策を講じました。
一方、小売の自由化は、発電事業の自由化に併せて1990年代の初めには検討が開始されていました。連邦国家であるアメリカでは1900年代初頭から電気事業に対する規制権限は各州の公益事業委員会に委ねられてきたという経緯があるため、電力自由化は国家単位ではなく州単位で検討されました。
当時のアメリカでは電力水準の各州格差が非常に大きく、ニューハンプシャー州やニューヨーク州の電力料金は、ワシントン州やケンタッキー州の電力料金と比べて3倍近くに達していました。アメリカの電力自由化は、州間の電力料金の格差を解消すべく導入されることとなったのです。
電力自由化によって、電力の需給バランスを調整することが困難となり結果として地域内の電力不足を招いてしまったという点で、世界の電力自由化史の中で負のリーディング事例となっている「カリフォルニア電力危機」は、アメリカの電力自由化を著しく停滞させた主犯格として扱われています。
カリフォルニア州では、1996年に電力改革法が成立し1998年から電力小売自由化が開始しました。当時、同州の電力販売シェアは民間の大手電力事業者3社(パシフィック・ガス&エレクトリック、サザンカリフォルニア・エジソン、サンディエゴ・ガス&エレクトリック)によって70%以上を占められていました。その残りは中小の電力事業者や近隣の州から提供される電力によって賄われていました。
同州では、電力自由化政策として、発電会社と小売会社の分離が進められ、電力会社の小売料金が凍結されました。また、州内の大手電力事業者3社に対して、保有する発電施設の売却を強制し、電力卸売市場からの電力調達を義務づけていました。そして州政府は発電所と電力事業者の電力の長期的な売買契約を禁止しました。有力な大手電力会社への規制を強めつつ、自由化には小売価格上昇のリスクもあるとして、消費者保護の観点から小売料金を引き上げられないようにしたわけです。大手3大電力事業者には市場からの調達を義務付け、発電設備を売却させるなど電力自由化を一気に進展させる思い切った政策であるといえるでしょう。
しかし、同州の電力事情はこの政策に対応できるだけの下地ができているわけではありませんでした。まず、1990年代後半の同州では、人口増加やシリコンバレーにおけるインターネット関連企業のドットコム・バブルとも相まって電力需要は急増していました。一方で、同州においては新規発電所建設計画が進んでいませんでした。これは同州では環境保護団体の圧力が強く、新規発電所建設に関わる環境アセスメントが非常に厳格に運用されていたため、原子力発電所、水力発電所の新設が許可されなかったためです。そのため、電力逼迫の際には、近隣のオレゴン州とワシントン州の雪解け水を元にした水力発電による余剰電力に依存しているという電力の安定供給の観点からは極めて危険な状況でした。
そんな折、2000年の夏に同州を猛暑が襲い、電力の需要が大きく高まりました。この時期は天然ガス価格が上昇していたので、電力卸売市場の価格は急上昇しました。この結果、ピーク時の料金は最高で7.5ドル/kWhの価格を付けられました。
電力会社は小売料金が凍結されていたために、この超高額な電力卸売価格の上昇分を消費者に転嫁することができず、大きな逆ざや状態が続いていました。電力会社からの代金回収を不安視した発電会社は売り渋りを行い、さらにはエンロン社のように自らが買収した発電所を意図的に停止させ、電力価格の高騰を促進させる企業が登場するに到り、電力事業者は大きな損失を得ながらの電力供給を余儀なくされました。頼みの綱のオレゴン州、ワシントン州での降雪量が例年に比して少なかったため雪解け水が少なく、両州からカリフォルニアに回せる水力発電の余剰電力も底を尽きかけていました。
そして電力会社はついに供給電力不足に陥り、大規模な輪番停電を行うにまで追い込まれました。2001年4月には大手電力会社3社の一つであるパシフィック・ガス&エレクトリック社が急速な経営の悪化によって、破綻しました。州政府は電力会社に代わり税金を投入して電力を購入することとなり、この事件によって州経済は悪化し、当時の州知事に対するリコールが成立する原因の一つとなったほどです。
カリフォルニア州は2002年には非自由化になりました。アーカンソー州やニューメキシコ州は、一旦成立した自由化法を廃止し、オクラホマ州およびウエストバージニア州は、自由化実施を無期延期とし活動を中止しました。これがカリフォルニア電力危機の概要です。
このカリフォルニア電力危機は、電力自由化が原因なのではなく、電力自由化に対する規制が原因と言えるでしょう。電力自由化という建前で、利益を得ようとした各関係者による人災でもあります。新設の発電所設置の流れを止めた環境保護団体、小売価格の上限設定を希望した有権者、その有権者の反感を買わないように小売価格の規制を維持した州政府、エンロンのような市場参加に利益独占の仕組みを構築した企業、の共同合作です。
しかし、州政府、政治家、環境団体やマスメディアに至るまで、このカリフォルニア電力危機の責任を、電力価格の高騰を引き上げたエンロンに押し付け、ました。しかし、エンロンはカリフォルニア州以外でも電力事業を営んでいましたが、電力危機はカリフォルニアでのみ発生したので、強引に犯人に仕立て上げられた節も伺われます。
いずれにしても、カリフォルニア電力危機は、電力自由化を無条件に自由市場原理に任せ大手電力会社に過剰な規制を行い、電力料金の引下げという結果のみを求めた未熟な制度設計と、電力需給管理のノウハウを軽視した結果の事件です。電力自由化に際しては、大手電力会社ならではの発電・送電ノウハウを活用し、安定供給の確保という大前提をいかに維持するかが重要な課題となったのです。
いかがだったでしょうか。
電力自由化と一口に言っても、各国で思惑や達成目標などは異なります。イギリスのように放任主義のようで規制を強める国、ドイツのように最初から大手電力会社有利に仕向けようとする国、アメリカのように完全放任主義の国、などなど。国民気質や風土が反映されやすいところは興味深いですね。
では、日本はいかがでしょうか。おそらく、ドイツ寄りの発想ではないかと考えております。送電部門を守るために、大手電力会社には利益を確保してもらわないと困るからです。
他山の石という言葉のとおり、過去の出来事を学ぶには、日本の過去よりも海外の過去の方が参考になるのかもしれません。